ルート十二面体

同人サークル「ルート十二面体」活動概要

[info]サークル参加予定イベント(2017.08.18更新)

(2017.08.20) コミティア121 【ま17ab】
(2017.09.03) こみっく★トレジャー30 【4号館 ウ09ab】
(2017.10.01) 関西コミティア51 【申込済み】
(2017.11.11) ふたけっと13.5 【申込予定】
(2017.11.23) コミティア122 【申込予定】

【ネタバレ注意】劇場版けいおん!感想【九稿目】

6回目と7回目を見てきました。
何度も言いますが、見るたびに新しい発見がありますね。

それはさておき、先週末はちょっとしたニュースがありました。
TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」内の映画評論コーナー、
「ザ・シネマハスラー」12/17放送分にて、「映画けいおん!」が取り上げられ、
宇多丸氏による評論が展開されたのです。2chでも話題になったようで、
やらおん!にもまとめ記事が作られています。

今回はこの宇多丸氏の「映画けいおん!」評について自分なりに掘り下げたいと思います。
あと宇多丸氏の評論に対する某漫画家氏の反応も話題になっていたのでついでに取り上げます。

【以下ネタバレ】



【ここからネタバレ】

ちなみに宇多丸氏の評論はこちらで聴けます。
http://www.tbsradio.jp/utamaru/podcast/index.html
2011年12月18日00:30追加分です。
全部で40分ほどですが、最後の方は次回予告なので、
けいおん評の部分は実質34分ほどになっています。
お時間があれば一度お聴きになった上で読み進めることをお勧めします。
(一応、お聴きになっていない方でもわかるように書いていくつもりです。)

映画本編はもちろん、原作マンガおよびTVシリーズの研究もぬかりなく、
よいところも悪いところもバランスよく評価しているということで、
氏の批評に対するネットでの評判は上々のようです。
個人的にも、うなずかされる指摘が多く、すばらしい批評だったと思います。
とはいえ、手放しで褒めても今ひとつ面白みに欠けるので、
本稿では氏の批判の一つに反駁する形で、映画の擁護論を展開してみようと思います。

ご承知のとおり「けいおん!」は、唯たちの「なんでもない日常」を描いた作品です。
そこにはストーリーらしいストーリーはありません。わかりやすい葛藤や成長などもありません。
しかし、ある仕掛けがそこに組み込まれることで、「なんでもない日常」が、まさにその
「なんでもなさ」において輝きだすことを氏は指摘します。

「けいおん!」はいわゆるサザエさん方式ではなく、季節がめぐるにつれて、
唯たちは二年、三年と進級していきます。となると、最後に唯たちを待ち受けるのが、卒業です。
つまり、唯たちの「なんでもない日常」には、やがて確実に終わりが訪れるということ。
そして終わりがあるからこそ、どんな平凡な一日も、彼女たちにとっては人生で一度きりの宝物になります。
物語構造に巧妙に組み込まれたこの時限装置によって、唯たちが過ごす一日一日の一回性が強調され、
「なんでもない日常」は「かけがえのない日常」へと変貌するのです。

以上を踏まえつつ、氏は次のように批判を展開します。唯たちは卒業後も「なんでもない日常」を続けるために、
四人そろって同じ大学へ行くことを選びます。終わりの瞬間を後ろにずらしたわけです。しかしそれをやると、
卒業と同時に終わりを迎えるという前提があったからこそ輝いていたはずの「なんでもない日常」が、
その輝きを失ってしまいます。あえて四人の学力差を無視し、澪に推薦を蹴らせるという暴挙を犯してまで、
唯たちを同じ大学に進ませるのは、単に不自然であるばかりでなく、卒業というタイムリミットの設定によって
「なんでもない日常」の一回性を際立たせていたせっかくの物語構造を台無しにする選択ではないでしょうか。
これが氏の批判の論旨です。(なお批判に際して氏は、離れ離れになる唯たちを見たくない、というスタッフの
キャラクターへの愛着がそうさせるのだろうし、自分もその気持ちは痛いほどわかる、という断りを入れています。)

***************************************************************************

宇多丸氏の主張についてはおわかりいただけたでしょうか。では続いて、これに対する私の反論を述べます。

「けいおん!」を唯たち四人の入学から卒業までの青春物語と解する限りにおいて、氏の主張は当を得ています。
しかし「けいおん!」は、唯たち「四人」だけの物語ではありません。そう、梓です。「けいおん!」は、
唯たち四人と梓の関係を描いた物語でもあるのです。そしてこの点を考慮に入れると、唯たちを同じ大学へ
進学させたのは、むしろ演出上の意図に基づく合理的な選択であったことが明らかになります。
以下、詳しく見ていくことにしましょう。

唯たちと梓の関係については、宇多丸氏自身が次のように言及しています。
梓は、一方では軽音部の一員として唯たちと同じ世界にいるのですが、後輩であるがゆえに、
唯たちと完全に同化することはできません。そこにはどうしても微妙な距離感が生じます。つまり梓は、
唯たちの「中」の存在でありながら、同時に唯たちの「外」の存在でもあるわけです。宇多丸氏は、
近づきたいけど近づけない、という梓のもどかしい立ち位置を、スクリーンの中に入りたくても入れないという
私たち観客の立ち位置になぞらえつつ、的確に指摘してみせます。

もっともな指摘です。事実、TV版二期、とりわけ卒業が意識され始める2クール目においては、
卒業する唯たちと、それを見送る梓との間の距離感が、もっぱら梓の視点を通じて、重点的に描かれています。
映画でも、梓が唯たちに遠慮して卒業旅行への同行をはばかるシーンがありましたし、いつにない真剣な表情で
何事かを相談する唯たちの姿を見て、隠し事があるのではと勘ぐり不安がる展開もありました。
唯たち四人の結束と、それに対する梓の疎外感が、作品全体を貫く主要なテーマであることは確かでしょう。
そして、まさにこの点にこそ、私の反論の核となるポイントがあるのです。

唯たちと梓の間の距離感、梓の唯たちに対する疎外感は、梓を除く唯たち四人の間の固い結束との対比によって、
鮮明に印象づけられています。ところが、ここで唯たちが別々の大学へ進むことにしてしまうと、四人の結束が緩み、
せっかくの対比の効果が薄くなってしまうのです。それだけではありません。四人が離れ離れになるとなれば、
別れに際しての四人それぞれの心理を描く必要が出てきますが、そうなると、梓の心理描写に割ける時間が相対的に
短くなってしまいます。これでは、「四人揃って卒業する唯たちを、一人残って見送る梓の疎外感」という、
せっかくの物語の主軸がぶれてしまって、作品全体が尻すぼみに終わる結果になりかねません。

唯たちとの対比において梓の心情を集中的に取り上げるためには、唯たちはあくまで一枚岩であったほうが
都合がいいわけです。もうおわかりでしょう。つまり、同じ大学への進学という、一見荒唐無稽な設定は、
物語を台無しにするどころか、唯たち四人の間の関係を捨象することで、唯たちと梓の間の関係に焦点を絞りこみ、
物語のテーマを際立たせるという、きわめて戦略的な選択だったといえるのです。

以上、宇多丸氏の批判に対する私なりの反論を展開してみました。いや、真っ向からの反論というよりは、
別様の解釈の提示といったほうが正確かもしれません。繰り返し申し上げますが、宇多丸氏の批判は、
唯たち四人の関係に話を限った議論であり(そしてその限りにおいては私も宇多丸氏の意見に賛成です)、
対して私が主張したのは、唯たちと梓の関係に話を限った議論です。そもそも議論の土俵が違うので、
一方が正しいからといって必ずしも他方が間違いになることはありません。どちらの土俵に軸足を置くのが
より適切か、という問題は残りますが、それは今回の議論とは別の次元で考えるべき問題です。
さしあたってここでは、宇多丸氏が(おそらく氏自身が唯派であるという理由から)無意識的に選択した土俵に対して、
それとは異なる土俵でも相撲が取れるという点を指摘するにとどめたいと思います。

***************************************************************************

で、宇多丸氏の評論に対する某漫画家氏の反応の件。

宇多丸氏の「時限装置としての卒業」という説に関して、先行作品である「あずまんが大王」を引き合いに出しつつ、
「けいおん!」を批判しています。「けいおん!」が「あずまんが大王」を超えているかどうかはさておき、
両者を比較する上で欠かせない論点がここでは抜け落ちているので、それについて補足を。

「あずまんが大王」は、ちよたちの学年で話が完結しています。つまり「あずまんが大王」には、
私が上で述べた「唯たちと梓の関係」にあたる関係、「先輩と後輩の関係」という軸が存在しないのです。
先輩後輩関係が「けいおん!」の専売特許というわけではもちろんありません。しかし少なくとも、
「あずまんが大王」との比較においては、有意な差として現れてくるポイントです。

ツイッターでの気楽な発言にそこまで求めるのは筋違いかもしれませんが、「あずまんが大王」と比べるなら、
せめて先輩後輩関係の有無についてぐらいは触れておかないと、フェアな評価にはならない気がします。

今回はここまで。

(※他の感想記事はこちらから→劇場版けいおん!感想まとめ)

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テーマ:映像・アニメーション - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2011/12/22(木) 11:52:42|
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  4. | コメント:4
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コメント

宇多丸氏の4人の大学進学に対する批判に反論します。僕の意見はランドルトたまきさんとは違います。
僕が思うに、宇多丸氏は、高校時代3年間の青春=別れ・喪失の痛みで完結という通念で決めつけて見ていますね。先入観を持たずに素直に見れば、それは全く違うと分かるはずです。

宇多丸氏の意見を要約部分から抽出させてもらいながら、反論していきたいと思います。
>唯たちは卒業後も「なんでもない日常」を続けるために、四人そろって同じ大学へ行くことを選びます。終わりの瞬間を後ろにずらしたわけです。
そもそも、この認識から間違っています。
20話の終盤で梓以外の4人は、それまで8話で始まった進路問題などを先送りにしながら目を逸らし続けてきた、「いつまでも続く高校生活」は有り得ないという事実を初めて真正面から受け止め、悲痛を感じ、涙を流しました。
その結果21話の初めにおいては、既に高校時代の終わりを受け入れています。4人全員、離れ離れになることに問題意識は全く持っていません。誰一人「4人で進路同じにしない?」などと示し合わせようとする素振りは一切見せていないのです。澪が推薦のことを打ち明けるまでは。
2期7話の「お茶会」での、唯達より1年先輩の曽我部先輩によって暗示されていたように、変わってしまうものも、終わってしまう時間もあるということを、21話の序盤でしっかり受け止めているんです。

そして、8話からずっと放置し続けてきた進路問題がまた浮上しますが、前回とは1つだけ違うものがあります。
前回提示されたときにはなく、20話の学園祭を終えた今、4人が得ているものがあるのです。
それは、12話の夏フェスや20話を経て、培ってきた放課後ティータイムの結束に対する認識です。
それまで、澪以外の3人、特に唯律には全くなかった、未来へ進むための積極的な選択を決定づける要因に、この結束・絆が相当するのです。
それを理由とし、4人の絆を進路選択における最大の価値と判断した上での澪の一言によって、4人はそろって確かな主体性を持って、進路選択に答えを出しました。

この進路選択の背景にあるのは、宇多丸氏の言うような
>離れ離れになる唯たちを見たくない、というスタッフのキャラクターへの愛着
などではなく、上述したキャラクターの積極的な意思です。
「終わるの嫌だ」はライブ後の部室で確かに克服していて、進路選択はただ4人が離れたくない、などという現状維持の為の消極的選択ではないのですよ。
そう主張できる根拠はさらにあります。
進路選択がもし現状維持のための消極的な行為だとするなら、24話で梓以外が泣かないというのはおかしいのですよ。
梓と4人は物理的に離れ離れになるのですから、4人が一緒でも梓との別れは辛い筈です。
このことからも、梓以外の4人は20話で終わりを受け入れていることが分かります。

以上を根拠として、宇多丸氏の主張する、4人の進路選択が
>「なんでもない日常」の一回性を際立たせていたせっかくの物語構造を台無しにする
というのは、全く間違いだと反論します。

そして、ランドルトたまきさんは、「取り残される梓を際立たせるために4人の進学先を同じにした」と脚本の意図を推測していますが、
それはよく考えるとおかしいのです。
20話で梓以外は終わりを受け入れ、それ以降は常に前向きな意識を持っていました。そしてその結果、24話で飛び立つ準備ができている4人と、20話で終わりを受け入れられなかった梓は、笑顔で別れられる4人と「卒業しないで」と悲痛を感じる梓として対比されました。
4人はどの進路を取ろうとも、21話の時点で終わりを受け入れていたのですから、その部分で梓との対比は完了しているのです。
わざわざ4人の進路を同じにする意味は薄いのです。


以上が僕の反論です。宇多丸氏の評論には同意できない点が山程あり、その評論に多くの人間が納得している状況に大変失望しています。この反論に対する意見をいただけたら嬉しいです。長文失礼しました。

最後に、ランドルトたまきさんの映画けいおん!の感想は、大変興味深かったです。僕ももっと多くの視点から見ていきたいものです。
それと、pixivの絵をいつもありがとうございます。
  1. URL |
  2. 2011/12/23(金) 03:35:40 |
  3. atom #qjsITxmk
  4. [ 編集 ]

コメントありがとうございます。

宇多丸氏への反論、私への反論、ともに興味深く拝読しました。
二期20話を境とした唯たちの心境の変化に着目すると、確かにそういう見方もできますね。
他の記事もお読みでしたら、ある程度お察しいただけると思いますが、
私の感想は、もっぱら物語の構造的・外形的な分析に終始しているので、
登場人物の内面を丹念に抽出しつつ展開される議論は、非常に新鮮で、魅力的でした。

さて、頂戴したコメントを受けての私の意見を述べたいと思います。
まずは、二期20話で「なんでもない日常」の終わりを受け入れた唯たちにとって、
同じ大学への進学は消極的選択ではありえない、とのご指摘についてです。

唯たちの選択が積極的な意思に基づくものであることは同意します。
しかしそうであればなおのこと、なぜ唯たちが進路を同じにしたのかが問題になります。
学園祭で軽音部の絆を再認識したからこそ、同じ大学への進学を選んだ、というのであれば、
「たとえ離れ離れになっても、軽音部の絆はなくならない」との思いを胸に、
唯たちが別々の大学へ進む未来を描くことも可能だったはずです。
どちらの場合も、唯たちにとって積極的な選択であることに変わりはありません。
そうであるにもかかわらず、わざわざ「逃げの選択」と誤解されかねない方向へ話を転がしたのは、
制作上のいかなる意図に基づく判断だったのか。この問いに答えるためには、
物語の中での整合性(=唯たちの選択が積極的であること)を示すだけでは不十分だと思われます。

私が「唯たちと梓の対比」という演出上の、すなわち物語の外の問題に着目したのも、
この点を意識してのことです。これについて、卒業の受容をめぐって既に対比が成立している以上、
四人の進路をそろえることによる対比の効果は薄いのでは、というご指摘を頂戴しましたが、
私はやはり進路の統一による対比は必要と考えます。以下理由を述べます。

そもそも、私が「唯たちと梓の関係」という表現を使うときに念頭においているのは、
「卒業する者と残される者の関係」にはとどまらない、という点に注意が必要です。
唯たちと梓の間の距離感は、卒業するかしないかの差によってのみ生じるのではありません。
私にとって重要なのは、唯たちの絆がまずあって、その外側に梓がいる、という構図。
軽音部の人間関係は、唯たちを基点として「内部と外部」という二重の構造を持っているのです。

この構造上の壁は、卒業が前景化する以前から、唯たちと梓の間を隔てていました。
梓が入部した時のことを考えて見ましょう。この時点で、唯たちの間には、
一年をともに過ごした仲間どうしとしての絆が既に形成されているわけです。
そこに梓が飛び込んできます。だらけきった部内の雰囲気に最初は憤りを感じつつも、
次第に毒されていくのはご承知の通りです。しかし、梓がどれだけ軽音部になじもうとも、
入部以前の一年間の思い出に梓が入り込むことは、絶対にできません。
その意味で、梓は構造的に唯たちの外部にとどまり続けます。

唯たちが三年生に進級すると、梓の外部性を強調するもう一つの装置が作動します。
さわ子の采配で唯たち四人が同じクラスに配属されるという例のあれです。
唯たちは、軽音部だけでなくクラスでも、互いに絆を深め合うことになります。
ですがここにも、梓は決して入っていくことができないのです。
この場合もやはり、構造的に梓は唯たちの外部にいます。

もちろん、唯たちにはそのような意識はないでしょう。しかし梓は気にしています。
映画序盤、梓が唯たちに遠慮して卒業旅行への同行をはばかるシーンは、
梓にとって「内部と外部」の構造が無視できないものであることを示す証拠です。
このときは唯たちに押し切られる形で旅行への参加を決めた梓ですが、
教室ライブの話を持ちかけられた際には、逆に唯たちの懸念を押しのける形で、
自発的に共演を志願します。梓が「内部と外部」の構造を克服する、決定的な場面です。

卒業の受容をめぐる対比という、唯たちの内面に迫った視点は、私が全く見落としていたもので、
確かにその通りだと思います。しかし話をその点に限ったのでは、梓を入部当初から悩ませてきた
「内部と外部」の構造が見えなくなってしまいます。そして、この構造を基軸に唯たちと梓の距離感を
演出するのであれば、卒業後もこの構造が維持されることが示されなければなりません。
卒業と同時に構造が消滅するとなると、卒業による離別の悲しみが緩和されてしまいます。
それを防ぐためにも、やはり唯たちが同じ大学へ進むことは不可欠ではないでしょうか。

以上が私の見解です。せっかく宇多丸氏が批判というネガティヴな(それゆえにポジティヴな)形で
意見交換のきっかけを提供してくれているのに、賛成ばかりで議論が活発化しない状況は、
私にとっても歯がゆいものです。いろんな人がもっと自由に発言すれば面白いのにと思います。

重ねて申しますが本当にコメントありがとうございます。
筋の通った主張で読み応えがありました。咀嚼して自分の意見をまとめるのに時間がかかり、
返答が遅くなったことをお詫びします。またご意見いただけたら幸いです。

pixivの件もありがとうございます。最近更新が滞っててごめんなさい。
年内には何か上げたいと思いますので、なまあたたかく見守ってやってください。
  1. URL |
  2. 2011/12/25(日) 09:37:13 |
  3. ランドルトたまき #n187J9zc
  4. [ 編集 ]

返信への返信(前半)

返信ありがとうございます。その返信の内容を抽出させて頂きながら、それに対する僕の意見を述べたいと思います。思いのほか長くなってしまい、前半後半に分かれていますが、ご容赦ください。

[1]まずは4人の進路決定の正当性について。
>「たとえ離れ離れになっても、軽音部の絆はなくならない」との思いを胸に、 唯たちが別々の大学へ進む未来を描くことも可能だったはずです。
その通りです。そういう物語も可能ですし、過去にそのような作品は多く存在します。実際、梓に対する意識はそのまま笑顔で別れられる4人という構図で描かれました。
ですが、僕がしているのは、他のどの作品でもなく、「けいおん!」では、キャラクターのどういう行動原理を背景に、どういう物語が紡がれたかという話なのですよ。

>わざわざ「逃げの選択」と誤解されかねない方向へ話を転がしたのは、 制作上のいかなる意図に基づく判断だったのか。
ランドルトたまきさんは、この様におっしゃっていますが、本来は誤解などしないほどに確かな形で示されているんですよ。それを今から述べます。

まず、12話(夏フェス)での5人、特に澪の心理が発端となっています。
12話終盤において、澪は「放課後ティータイムもすごいバンドだよ」と、唯の「プロより私たちの方がすごい」発言に同意します。 当然、単なる演奏技術の話なら、彼女たちはプロに到底敵うはずがありません。 では、なぜ理性的な澪が唯のそんな言葉に同意したのかというと、唯の言った「オーラ(一体感とも言える)」、つまり5人の結束についての考えに共感したからです。澪は今までの軽音部での活動を経た結果、5人の絆・共に輝いていることに、現実的な単なる技術など、を超えた価値があることを認めたのです。 (最後には5人全員がこれに同意しました。
そして、それを20話で再確認した結果、21話で澪とその他3人にとっての進路の選択肢の中に、未来で「今」を輝き続ける為の道として、4人が同じ道を進むという選択肢が最上位として存在しているのです。 (澪の推薦を蹴る決意は、唯のモンブランに4人が栗を載せるシーンでの澪のカットの瞬間になされたと思われます。)
このような価値観は、12話、20話で5人共有のものになっています。その上での進路選択なのですよ。
「いつまでも続く時間という幻想」がぶち壊された後、その上でどう生きるか。その答えを提示したのが21話の4人の進路選択です。

>「たとえ離れ離れになっても、軽音部の絆はなくならない」
というのは確かに正しいし、キャラクターも自覚しているからこその、21話以降の前向きな姿です。
しかし、その認識は、実際に離れる道を当然歩む必要がある、という事は必ずしも意味しないと思います。
ともに人生の「今」を輝いて生きることの価値を第一とするならば、4人の選択はむしろ正当ではないでしょうか。

しかし当然、大学進学は、将来の目標や、大学の特色などを真剣に考慮すべき、という意見もあります。 僕自身、大学選びの時はそのようなことを念頭に入れていました(結果的にやりたいことが見つかったのは入学後でしたが……)。 そのような一般論は確かにありますが、4人にとって現在における未来へ進む際に重要視している最大の事柄は、上述した絆・共に輝くことなのです。

たとえ別々になろうとも、絆は変わらないよ」と、「これから先の未来も『今』を輝かせるために、共に歩もう
この2つは、同じ絆が絡んでいても、全く別の話なのですよ。

以上が、4人の進路選択の必然性の理由であり、別れや喪失で終わるという、よくある青春ものとけいおん!の違いです。 確かにそういう作品もありますし、そういう作品が好きだ、という人もいるのも分かります。 ですが、けいおん!に対して同じ価値観・展開を押し付けるのは間違いだと思います。 どうしても、高校時代の青春ものならば「別れて終わるべき」という固定観念で見てしまいがちですが、それがこの作品の構造を誤解してしまう最大の理由だと思います。 (むしろ、自分は上述した論理を誤解なく受け入れられたので、21話放送直後にネットで随分騒がれているのを見て驚きましたが……)
先入観を排し、作品で何が描かれているかを、ありのままに見て、作中の描写を元に、何が物語の構造的に正しい「すべき」ことなのかを考えるべきだと思います。

長々と記述してしまいましたが、要点は次の2つになります。ランドルトたまきさんは恐らく②の方を見落とされているかと思います。
①唯たち4人は、自分たちにとってのモラトリアムの終わりを20話の最後で受け入れており、その後の進路選択は現状維持のための消極的行為ではないこと。
②5人の絆、5人での輝きが、モラトリアムの終焉後の、変化も終わりのある世界を生きる上で、彼女たちにとって最大最高の価値を持っていること。

以上が、僕が主張する4人の進路選択の物語における正当性を示すものであり、宇多丸氏の進路に関する批判意見に賛同できない根拠です。

そして作品本編とは関係ない話で、コンテンツ継続という「大人の事情」で4人を同じ大学にした、という説がありますが、その真偽はおそらく僕には永遠に分かりません。考えられるのは恐らく2つあって、
①4人の進路は作者の確固とした意思で、連載終了後にきららの部数が落ちたからまた描いてくれ、と要望を受けて、4月から大学編と高校編を再開したのかもしれませんし、
②初めから4人を同じ大学に行かせる、という結末は続編の為の出版社側の指示で、作者は言われた通りに描いて、一旦連載を終了してファンの飢餓感を煽り、4月という新学期に合わせて再開させたのかもしれません。

むしろだからこそ(本来はそうでなくても)、物語本編において、結末に至るまでにどのような論理がテクストとして提示されているかをありのままに見る必要があります。
例えば、ある作者が登場人物が全員死ぬバッドエンドにしたい、という意思があって、そこから逆算して物語を作ったとしても、物語の中で、結末に至るまでの論理が破綻していなければ、作品の受け手はそんな最悪と言えるような結末すら納得できます。 価値観による好き嫌いは別として。
  1. URL |
  2. 2011/12/26(月) 05:51:39 |
  3. atom #qjsITxmk
  4. [ 編集 ]

返信への返信(後半)

[2]そして、ランドルトたまきさんの主張する、
>進路の統一による対比は必要
という主張について。 返信コメントに対してさらに反論があります。

「唯たちと梓の関係」に関してですが、
>「卒業する者と残される者の関係」にはとどまらない
>軽音部の人間関係は、唯たちを基点として「内部と外部」という二重の構造を持っているのです。

上記の意見には完全に同意します。確かに僕もそれを作中で読み取ることができます。

しかし、「内部と外部」の構造を基軸に、
>唯たちと梓の距離感を演出するのであれば、卒業後もこの構造が維持されることが示されなければなりません。

という主張には同意できません。なぜなら僕は、「卒業する者と残される者の関係」と「内部と外部」という、梓が感じる、この2つの関係への意識は、どちらも梓が有する者ですが、それらは独立した別モノだと考えるからです。
この観点から、同意できない理由を述べていきます。

・「内部と外部」について
この「内部と外部」という梓の感じる距離感が、過去を共有する卒業旅行により解消された、というのは、ランドルトたまきさんと全く同感です。
>映画序盤、梓が唯たちに遠慮して卒業旅行への同行をはばかる
このような態度だったのが、旅行から帰った後の卒業ライブでは、自発的に4人と参加することを希望しました。 あの時点では、4人のクラスに入ることや、4人との学年差に対しても壁は感じてませんね。 (きっと、梓と唯達4人の間の壁の解消は、山田監督他スタッフの梓への想いから来たものですね。本編でやり残してしまい、それが心残りで映画で描いたのでしょう。)

・「卒業する者と残される者の関係」について
卒業式の日に、先輩たちと別れる、先輩たちとの時間が終わる、ということをはっきり自覚し、梓は辛くて泣き出すわけです。ここで働いているのが、20話で梓だけが終わりを受け入れられなかった事による作用です。
>卒業による離別の悲しみ
がこれにあたるので、卒業旅行で「内側と外側」を解消したところで、「卒業による離別の悲しみ」には影響しないのですよ。それは卒業旅行と卒業式の前後関係からも明らかです。

そして、 ランドルトたまきさんの、「内部と外部」の構造を基軸に、
>唯たちと梓の距離感を演出するのであれば、卒業後もこの構造が維持されることが示されなければなりません。
という主張に戻るのですが、4人だけが共有した過去の時間や、そこから来る4人の中でのみ通じるノリ、が梓の感じる「外側としての距離感」の理由であって、それらは卒業後に別々の道を歩もうとも、別に消失はしません(そもそも卒業旅行で解消されています)。 それなのに、4人の卒業後という未来を統一して、いったい何の意味があるのかという話になるのですよ。 さらに上述したように、「内部と外部」と「卒業する者と残される者の関係」は別個のものであり、24話での悲痛さは後者から来るのです。

そして、話はそれますが、ランドルトたまきさんは、梓と4人の距離感について
>もちろん、唯たちにはそのような意識はないでしょう。しかし梓は気にしています。
こう考えられていますが、僕は個人的には、卒業ライブ前のあの時に一歩引いて遠慮した誘い方をしていた4人は、壁を作ってしまっていることを自覚していたのでは、と思っています。 梓に対してあんなに思いやりのある4人が、自分たち3年生の教室で、ライブをするとなったときに、学年の違いなど、絶対的な壁を意識しないはずはないと思うのです。

また長々と述べてしまいましたが、僕の主張の要点をまとめると、次のようになります。

【卒業後という「未来」において、梓の4人に対する「内部と外部」による距離感の演出は必要ない】
理由① 「内部と外部」による距離感の原因は4人が「過去」に共有していたもので、それも卒業旅行で解消されたから。
理由② そうでなくても第一、その「内部と外部」による距離感と「卒業する者と残される者の関係」による距離感は独立した別モノであって、最終回での梓の悲痛な感情「卒業しないで」は、20話で梓だけが終わりを受け入れられなかったことを理由に、後者から来るものだから。

以上を根拠に、やはり距離感の演出のために、4人の進路を統一し、「内部と外部」の構造を演出することは必須ではない、と考えます。


最後に、繰り返しますが、返信ありがとうございます。
ここまでけいおん!という作品に対して、真摯に向き合っていただけて、僕はそれだけでとてもうれしいです。本当にありがとうございます。

そして、この意見に対してまた反論があればお願いします。 映画けいおん!の新しい感想も楽しみにしています。
  1. URL |
  2. 2011/12/26(月) 06:16:54 |
  3. atom #qjsITxmk
  4. [ 編集 ]

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(2010.11.14)京おん!!
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(2011.04.29)桜高新入生歓迎会!!
(2011.06.05)ComicCommunication15
(2011.07.10)けいほん!!5
(2011.09.04)ComicTreasure18
(2011.09.18)よんこま小町8かいめ
(2011.10.16)関西コミティア39
(2011.11.20)勧業祭2011/Maiden'sGarden6
(2011.11.27)けいほん!!7
(2012.01.15)ComicTreasure19
(2012.03.25)けいほん!!8
(2012.04.01)そうさく畑66
(2012.05.05)桜高新入生歓迎会!!2じかんめ
(2012.05.13)関西コミティア40
(2012.09.02)コミティア101(委託参加)
(2012.09.02)ComicTreasure20
(2012.10.14)関西コミティア41
(2012.10.21)よんこま小町9かいめ
(2012.11.18)コミティア102
(2012.11.22-25)キチケット01
(2013.01.13)ComicTreasure21
(2013.02.03)コミティア103
(2013.03.24)そうさく畑収穫祭2013
(2013.05.05)コミティア104
(2013.05.19)関西コミティア42
(2013.06.16)ComicCommunication17
(2013.08.18)コミティア105
(2013.09.01)ComicTreasure22
(2013.10.13)関西コミティア43
(2013.11.17)ComicCommunication18
(2014.05.05)コミティア108
(2014.05.18)関西コミティア44
(2014.06.29)そうさく畑収穫祭2014夏
(2014.08.31)コミティア109
(2014.09.07)ComicTreasure24
(2014.10.05)こみトレORIGIN4
(2014.10.12)関西コミティア45
(2014.11.23)コミティア110
(2015.01.18)ComicTreasure25
(2015.04.05)名古屋コミティア46
(2015.05.05)コミティア112
(2015.05.17)関西コミティア46
(2015.05.24)ComicGeneration
(2015.06.21)ORIGIN5
(2015.08.30)コミティア113
(2015.09.06)ComicTreasure26
(2015.10.04)関西コミティア47
(2015.11.03)ふたけっと11.5
(2015.11.15)コミティア114
(2016.01.31)コミティア115
(2016.03.20)第6回アートメイド
(2016.04.03)名古屋コミティア48
(2016.05.03)ふたけっと12
(2016.05.04)SUPER COMIC CITY25 day2
(2016.05.05)コミティア116
(2016.05.15)関西コミティア48
(2016.07.03)サンクリ2016Summer
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